じょっぴんかったか

昭和の中頃から電気炊飯器があるので「ちゃんとかましてから うるかさなかったっけ めっこになったべさ。」ということは少なくなったのかもしれません。あずましき国を探検してみればこれまた「たいしていっしょや。」と思えてしまいます。

善なるもの。

手打蕎麦 善庵
札幌市中央区南二十四条西15-1-11 ロイヤルハイツ 1F

全ての結果には、原因があるものですが「因果応報」という四文字熟語を知るわけもないお局様の「ホスピタリティーを大切に・・・」といった朝礼のありがたきお言葉を頂戴して始まったサラリーマンの一日です。かと思えば、夕刻になると自分が忙しかったとイラつき、狙いを定め同じ部署のチャンネーを攻撃する様を見ると、彼女は日本語は愚かカタカナ英語の意味すら分からずご立派な事をのたまっていたんだなあと思う次第です。

誰しも「善」なるものと「悪」なるものを内包しつつ、時には迷い自問自答し、行いを省みた結果多少の悔いる事もあるでしょう。まずは、「己は愚かな存在である。だからといって、悪いところばかりでもない。」そんな風に自分は曖昧な存在であるといういことをを認めることから始めることができればいいんです。「善」なるものです。
そうできないから「だって、あたし悪くない。」と、他人を攻撃することで安心を得ようとする。バカです。「悪」なるものです。

またまた、仕事のお手伝いに派遣社員という立場で来てくれた方が、あっという間に辞めました。。(´д`lll)

そんなことになっているとは、つゆ知らず蕎麦です。
ゲージツ的な細さの蕎麦も好きです。太目の蕎麦も好きです。甘目のつゆも好きです。辛目のつゆも好きです。兎に角、一生懸命作っているであろう蕎麦は、何か伝わります。

蕎麦を「のど越し」という方もいらっしゃると思います。でも、しっかり噛みしめたほうが、蕎麦は蕎麦として使命を全うするんでしょう。食感、香り、甘み、みんな違ってそれでいい。

同じことをすれば、そればかりやっている(いわゆるスキルのある)方が、経験が少ない方に物足りなさを感じ、攻撃したところで何も始まらない。現実を見つめ、たとえば困っている方がいる、そこで「めい・あい・へるぷゆー!?」的発想こそ、ホスピタリティーの根幹をなすものだと、自分的カタカナ英語辞典には記憶されているのです。(こんな解釈でよろしいでしょうか)

屋号の通り、今日の自分にとっては「善」なる蕎麦でした。